ブリーフエッセー from グリーンウォーカー No.4

辞書には優柔不断の意味が、ぐずぐずしていて物事の決断がおそいこと、とあります。その意味どおり、私は小さいころは決断力がなく煮えきらない性格でした。何をするにも自分ひとりで決められず、親や友人に付き従っているような子供だったような気がします。でも、その性格は大きくなるにつれてだんだん小さくなっているように思います。

それは知識と経験の積み重ねによって判断力がついたせいもあるかもしれませんが、それよりも自分に対してこだわりがなくなってきたことのほうが大きな原因であるような気がします。小さいころは、間違ったらどうしようということがとても不安で自分で何か決めるということがなかなかできずにいました。ところが、今では物事を以前より広い視点で見られるようになってきたようで、間違ってもいいや、ちょっとくらい損してもかまわないか、という考え方をするようになってきました。そもそも正しいかどうかということはあるひとつの視点から見てそうわかることで、同じことが別の視点から見ると必ずしも正しいとは限りません。別の言い方をすると、すべての物事には良い面と悪い面が両方あり、これが絶対に正しい!なんてことはありません。そう考えると、自分が納得できることを素直に選べばいいという気持ちになります。

そしてそういう心持でいると自然と自分のことだけでなく他人のことも考えるようになっていくような気がします。例えば相手に嫌なことを言われたりされたりしたとき、相手に悪いところがあるのと同じように悪くないところもあるだろうし、逆に自分にも悪いところがあるのだろうと思うと、相手を許してもいいかなと思えてきます。また、自分がちょっとくらい損をしてもいいかと思っていると、自分が損をしてその分を相手が得をするようなことがあってもさほど抵抗を感じることはありません。そういったことはある程度の信頼関係がある間柄に限ることではありますが・・・。

突拍子もない話になりましたが、環境問題を考えるときにもこの考え方は参考になるのではないかと思います。環境問題を解決したいと思うのはなぜかと言われれば、私の場合その答えは今生きている人たちやこれから生まれてくる人たちに健全に生きていってもらいたいと思うからです。そこには、自分へのこだわりをひとまずおいて、他の人に目を向けてみるという姿勢があるように思います。

孔子は自分がして欲しくないことを他人にしてはいけないと言いました。キリスト教の黄金律には自分がして欲しいことを他人にしなさいということが書かれているそうです。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉がありますが、別の言い方をすれば自分のためではなく他人のためにという風に言い換えられます。また、何のために生きているのかと聞かれたら自分以外の誰かを幸せにするためにと答えればいいと言ったのは瀬戸内寂静さんだったでしょうか。二千年を超える大昔から現代まで、他人のために生きなさいという箴言があるのです。逆に言えば、人間というのはなかなか他人のために生きられないのかもしれません。

18世紀末のフランス革命以降、自由、平等、博愛の名の下に全人類の幸福を求めることがスタートしました。しかし、これまでの歴史の主要な流れを振り返ってみると、博愛の精神が実現されてきたのかどうか疑わしい部分があります。現代の私たちの社会を見ても、自由の占める比重が不自然に大きくて、誰かのためにということを言うと、素晴らしいことだと褒められるか胡散臭いと距離を置かれるかどちらかの反応をされる風潮にあるような気がします。そうではなくて、他人のために生きることが当然だという社会のほうが健全で美しいのではないかと、まだまだ自分でその境地に至れないながらも考えています。
・・・・・・あんまり環境問題と関係ない話ですいませんでした・・・。

筆者紹介
丸山浩司(まるやまひろし) 東北大学文学部4年
■趣味:インターネット
■取材に対しての抱負:
持続可能性という言葉が自分の問題意識としてあり、企業が持続可能な社会の実現という観点からどんな取り組みをしているのか、とても興味があります。インタビューで伺ったことから、買い物などの普段の生活が少しでも改められたらよいと思います。

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